『庭の雑草を抜く、ただそれだけのこと。』


心の片隅にある、言葉で表現できないもの、誰しも抱えて生きていると思います。
言葉では表現できないのだけれども、ふとした瞬間に、まるでdeja vuのように水面下にふわりと現れ、
意識下でつかまえようとするのだけれど実体がないし、そもそもそれが何なのか分からない。
誰しもそんな経験をしたことはないでしょうか。
何も知らない子供の頃は常に太陽が照らし、決してきれいとは呼べないけれど、
心穏やかに過ごせた草原のような場所。
月日が経ち、人生経験を重ね、常識の植え付けやしがらみの建造物に
徐々にその唯一絶対の居場所を侵食されていくうちに、
いつしかまるでそんな場所はなかったかのように生きている自分。
いったい誰に期待されているのか説明できないのに、
いつのまにか何かの期待に応えることが使命(ノルマ)のようになった人々。
刹那的な感情に揺さぶられながらも、自分を自分たらしめる理性こそが絶対と信じる人々。
人智を超えた創造主に思いを馳せ、書物の教えに従いながら、倹約的に生きる人々。
人民の支配こそが世界の秩序を保つ唯一の方法と信じ、日夜画策する人々。
時間もお金の概念もなく、日々気ままな生活の中で朗らかに暮らす人々。
生まれた場所、時代、環境、家族、友人、信仰、皆それぞれ生き方や考え方は異なるけれど、
ふわりとした原始的なものがあの場所に常にあって、ほんとにふとしたことがきっかけで、
一瞬でもその片鱗が垣間見えることがある(あった)のではないでしょうか。
大人になってから人生の方向性を突然変えた人たちは、
それをつかんだ(つかんでしまった)ことがきっかけなのかもしれません。
それが何なのか分からないのだけれども、ある晴れた日の午後に、
私が家の庭の草むしりをしていた時に、いつの間にか夢中になり、
それこそ無我夢中で草をむしっていたその最中に、
私の胸中に去来したあの感覚は、まさにそう呼べるものではなかったのか。
遠い昔は確かにそこにあったのに、いつのまにか忘れ去ってしまい、
ふとした瞬間に現れた時、そこに向かって手を延ばしたけれども、つかむことができなかったもの。
もう一度その感覚を呼び起こすために、今日も私は庭の草をむしっています。