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| 被爆直後の1945年10月から11月にかけて、調 来助 教授を中心に生残りの医局員と学生で爆心から4km未満の被災者約5800人を対象に遮蔽状況や原爆症などの聞き取り調査が行われた。調査票は生存者、死亡者に区分され全26冊に整理された。医学関係者による早期の調査であり、死亡者を含んでいる点が貴重である。全ての調査データは解析できる形で原爆被爆者データベースに収録されている。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 調 来助 教授は原爆被災調査の結果を、自ら約1年をかけて集計、執筆した。死亡率、死亡時期、外科的損傷および放射線症の4編にまとめた。1982年、被爆当時の日記とともに、本報告書全文が吉澤康雄先生との対談「医師の証言 長崎原爆体験」(東京大学出版会)に掲載された。英語版は1953年、米国医師による抄訳が米軍医学雑誌「ミリタリーサージョン」に掲載され、全訳は2006年に長崎・ヒバクシャ医療国際協力会から出版された。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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第11医療隊の隊長であった永井 隆が学長に提出した報告書。8月12日から2か月間に三山救護所で診療した患者125名の詳細な記録と放射線による病変の特徴が記されている。また爆心地での居住や人体への障害など、放射線科医としての専門的知見に基づいた考えがまとめられている。本報告書は1970年に田川福松氏から提供された。原爆復興70年事業として永久保存のための修復が施された。
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 第6医療隊の隊長であった調 来助が記した昭和20年8月13日から10月26日までの日誌である。長崎医科大学、学長や同僚、建築物、学生の被害状況等のほか、道ノ尾に開設された岩屋倶楽部仮救護所の顛末が記されている。また、自身も長男、次男を失い、その経緯にも詳細に触れられている。大村海軍病院と医大再建にかかる動きについても詳細な記録があり、10月23日には原爆災害調査の実施についての記述がある。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 大村海軍病院院長であった泰山弘道による著書の原稿427枚。大村に運ばれてきた原爆患者の救護の先頭に立ち目撃した惨状の克明な記録である。また、医大復興への尽力の記録でもある。昭和26年8月9日脱稿。米国婦人に向けて訴えるべく英語に翻訳したが米国政府の許可が得られず出版できなかった。日本語初版は昭和59年に出版。英語版は2005年に長崎・ヒバクシャ医療国際協力会から出版された。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 大村海軍病院では長崎医大の教授と学生たちにより戦災患者の治療と講義が続けられていた。昭和20年9月24日から12月3日の間の日々の行動を週番の学生が記したものである。食事の少なさに憂いつつも、煙草の配給に喜び、医大再建に夢をみつつ講義を受け、勉強を続けていた様子がうかがえる。10月29日から12日間は原爆症調査の調査員として長崎市内を奔走している。「こんな事永くさせられたら配給飯では体がもたん」...と漏らしたことも。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 「医大はこの市民の窮状を眼前に何をしているのですか。」医科大学が新興善救護所を開設する前、9月30日から10月20日までの間、古屋野学長の許可を得て、復員青年の小柳光久医師のほか、仮卒の医療者8名と看護婦4名が市中心部の榎津町(現万屋町)の弘心寮に「医大診療班巡回・往診・診察致します」と看板を掲げ、広範囲の巡回診療行った。8名のうちの一人である米村博臣氏の編による。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 原爆症には、全身倦怠、発熱、浮腫、点状出血、脱毛、歯齦腫脹・出血、悪心・嘔吐、血液変化、胸痛、腰痛、腹痛、下痢・血尿、関節痛、月経痛がみられた。巡回診療班のカルテ137枚には、原爆症のほか、火傷、赤痢疑い、湿疹などの皮膚病、風邪などが記載されている。巡回を始めて10日も経たぬうちに患者は半減したとある。 精神科からの顕微鏡で白血球数の計数が可能になり、その経過が記録されている。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 被爆当時に作成された医科大学・附属医院における生存者数と死亡者数の記録である。職員、医学専門部、薬学専門部、学部学生および入院患者・付添人別に集計され、総員 1,886 名のうち、 859 名が死亡したとされている。なお、職員および学生の死亡者数は、1995年発行の「忘れえぬ日」による人数と後日判明した2名の 898 名が現時点で確認されている死亡者数である。 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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| 故 調 来助 名誉教授の編集により、長崎医科大学犠牲学徒遺族会から発行された小冊子である。愛児を亡くされた御両親に悲壮な思い出を書いて頂くと共に当時の長崎医大の学生達が、どんな状態で原爆の犠牲になったかを遺族の皆様に報告し、併せて一般方々の認識を深めることを目的に発行された。当初、発行は1回限りの予定であったが、多大な好評を博し、手記の寄稿が後を絶たなかったため、昭和43年以降、全7冊を発行するに至った。 |
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本誌は、原爆被爆10周年の1955年10月、長崎大学医学部で出版された。当時の古屋野学長の企画により、筬島教授の指揮の下に、各教室・学生・看護婦・その他から資料が集められ、長い時日と弛まざる努力の下に編纂された。各教室ごとに被爆時の状況や思い出などが綴られている。
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世界で4番目に核保有国になったフランスは1966年から1996年までの30年間に193回の核実験を行ってきた。医学部の教官と学生有志は核実験の強行を続けるフランスに対して、同国の有力紙であるル・モンドに核実験停止を呼び掛ける意見広告を掲載した。その後同国は1996年1月の実験を最後に包括的核実験禁止条約(CTBT)に調印し、1998年に批准した。1996年1月28日掲載。
(要旨)「核兵器の保有は本当に平和をもたらすのでしょうか? 核兵器は人類を破滅させ得る大量破壊兵器です。1945年8月9日、一発の原爆で長崎は壊滅し、多くの市民と医療者が犠牲となりました。生存者は放射線による後遺症に長く苦しみました。私たち医師・研究者・学生は、この惨禍を踏まえ、核兵器の開発・実験が再び行われないことを強く求めます。」 |
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| 長崎大学附属図書館医学分館 所蔵 |
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