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此花診療所 所長 小林栄一 |
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今から60年前、長崎医科大学には医学専門学校(医専)が設置されていた。小林栄一先生は当時、医専の3年生であった。元長崎大学長の土山秀夫先生とは同期である。先生は当時救護活動をされ、その後、医師として被爆者医療に深く携わられた。 |
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附属病院 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター
名誉センター長 久松シソノ |
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被爆直後の救護隊のひとつに第11医療隊があった。隊長は物理的療法科(現在の放射線科)の永井隆博士であった。12名で隊が編成され、被災者の救護活動にあたっていた。そのメンバーの一人である久松さんは婦長として永井博士とともに救護にあたられた。 |
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長崎記念病院 顧問 福井 順 |
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爆心地より700mの近距離で被爆した原爆の恐ろしい実態と、"死の谷間"と呼ばれた放射線障害による第3期原爆症を奇跡的に乗り越え現在まで60年間生きてこられた。その体験に基づき医師として深い人生観をお持ちである。 |
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長崎如己の会 理事長 濱里欣一郎 |
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当時、医学専門学校の仮卒業であったため診療資格はなかったが、原爆直後の爆心地周辺の被災者を救護したいと当時の学長に懇願し、特別に許可を得て指導医師の指示のもと、巡回診療にあたられた。学内に散乱する同級生の遺骨を見るに忍びず、遺骨を集め「グビロが丘」に埋葬し慰霊碑を建立された。 |
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口之津病院 川野正七 |
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60年前のその日のことを思い出すと心が痛みます。長崎医科大学3年生の同級生の大半が被爆によって苦しみ、死亡したのに外科の外来診察室にいた私は古屋野教授と共に生き延びたからです。全員が死亡した1年生と2年生のなかには私の親しかった友人も居たからです。 |
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元長崎大学長 土山秀夫 |
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8月9日、ハハキトクの電報で長崎を発ち、ラジオで原爆投下を知って同日夕刻には帰崎の列車に乗る。廃墟と化した浦上一帯を横切り大学病院へ。調教授の救護班に編入され被災者の救護活動に従事。その後、大村海軍病院での日米合同調査団の手伝いや、被爆生存者の聞き取り調査に従事した経験について述べる。 |
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サンレモ リハビリ病院院長 市丸道人 |
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昭和20年8月9日、長崎にいて原爆死を免れたいきさつ、被爆直後の浦上方面の惨状、大学病院及び病院裏山の被爆者の状況、講義室から脱出した同級生のその後、市内小学校各講堂での治療状況等について述べる。原爆後障害と白血病についてもふれたい。 |
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