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長崎医科大学 助教授 森 重孝(34歳) |

我々の小見科病棟は爆心地より南方約600米の所に在る
8月9日午前11時10分頃私は1階にある南向きの診察室で百日咳の患者(2歳)を診察して居た。1名の看護婦は患児の着物の着脱を世話して居た。1名の医師は私の右側に立って私の診察を見て居た。
突如我々はB29の爆音が次第に大きく聞えて来るのに気付いた。聴診器を耳からはずして、私は「クレゾール石鹸液の方へ手を洗おうとして、コンクリートの壁で蔭になっている場所に身体を動して行った。其の時重苦しい爆発の音を聞いた。と全く同時に「コンクリート」の建物が壊れて来て私を押しつぶしたと思った、又横の壁が全身に倒れ掛って来て身体を叩いたかと思った、それでも私は立っていた、立って居ながらフラフラした。意識は明瞭であった。呼吸促迫がひどい。吸気は小刻みで吸気ばかりしている感じがした。眼を開いたが真暗闇である。「呼吸しなければならない」私はそれのみを考えて居た。暫くして私は立って居るのが恐しい、逃げようと思った。一歩踏み出した、すると私は床下の破れ目からだろうか低い所に落ちて行った。落ちて眼を開いても尚見えない。呼吸は一段と促迫している。左側眼部を血液が流れるのを感ずる、左眼は開く事が出来なかった。
2分間位後であろうか雲が失くなる如く世間がだんだん見える様になった。
私は避難場所を求めた病院に近い小高い岡が見えた。歩きながら私は診察衣をさいて頭部の傷を探って繃帯した。出血は尚左眼を被った。然し脚は良く動いた走ることも出来た。血達磨になった数名の看護婦がすがり付いて来る、私は看護婦達の手を引いて岡に逃げた。看護婦達は岡を登ることが出来ないと云った。私は重傷の肥えた看護婦も平気で背負って岡を登った。病院はもう火の海だった。東風がひどい。病院の燃える煙を避けられる所に傷者を休ませて軽症の看護婦の白衣を裂いて繃帯を作った。
重傷の看護婦は悪寒と口渇に苦しんで泣く。周囲には医師看護婦達が沢山集って呻いて居た。
私は私の教室の医師の傷を手当して後私の傷を診て貰った。左眼上部に長さ5糎の硝子破片創、有髪頭部に約10個の裂傷両手に約20個の擦過傷であった。私は沃度丁幾を傷に直接つける。擦過傷は痛いが大きい傷は少しも痛くなかった。此の頃から右側腹部が深呼吸をすると激しく痛む、3日後右側腹部には小皃頭大の皮下溢血を認めた、南向きの窓から入った爆風によるものであったろう。この爆風は私の傍に立っていた医師の腹部に強く当って、彼は4日目急性腹膜炎の爲に死亡した。
その夜から私は爆心地より約1粁隔った自分の家の防空壕で妻(「レイヂエイション」を受けて後35日目死亡)と2人の子供と共に起居した。傷が化膿しないように「サルファアミイド」剤を5日間服用した。左眼上部の裂傷両手の擦過傷は1週間の後は完全に治癒した。
有髪頭部の裂傷は2ヶ月半の後ようやく治癒した、その間硝子小破片が数個出た。負傷12日後私は妻子共に3日間の汽車旅行の後田舎で保養した、昼間は疲労を感ずることなく妻子の診療をやった、夜は熟睡した。
10月13日白血球は4600、頭髪の脱毛は全然なく熱発もなかった、唯9月25日(被弾後46日目)顔面の冷汗に1日間苦しんだ。性慾は別條なかったと思う、妻が重傷でなかったら性生活は変わりなかったであろう。 |
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オリジナル原稿 |
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