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長崎医科大学医師 森澤陽亮(33才) |

高台に立てる4階建鉄筋「コンクリート」建の2階南面の室内(長崎医科大学附属医院内科病棟内2階看護婦室にして広さ約4坪、爆心地を距タル南約0.6粁)にありて、白色半袖「シャツ」2枚、濃紺色毛「ズボン」1枚着用にて椅子に坐し西面して執務中、急に飛行機の近接音を聞く。敵、味方機の判断の付かぬ間に、「ピカッ」と、さながら稲光の如き閃光を見る。同時に天井板、硝子窓等一瞬に落下し大音響を発す。机等の下に臥す暇なく、無意識に立ち上る。
生命あるに気付くも視界暗黒にして窒息の危険に曝さる。併し悪息ある瓦斯等を吸入せりと思わず。窓側を求めて暗黒中を彷徨する内視界晴る。同室せる他の7名も1名の負傷者もなく生存す。(其后の経過に於ても死亡せるものなし)顔に手をやるに出血相当量あるも全身に疼痛を覚えず。眩暈・頭痛・悪心等なし。出血するに任せ、直ちに建築物外に出づるに沛然たる大雨あり。漸く晴るるに及び、見渡す限りの人家ことごとく倒壊し、(鉄筋「コンクリート」建のみ其の残骸を曝す)木草の青きを見ずして、さながら手足をもぎ取られたるが如し。諸膚に小火焔の立ち昇るを認む。直ちに又室内に引き返し、負傷者等を搬出し、約10分後東方の山(標高100米)へ避難す。既に止血し自覚症状全然なし。途中火傷患者に多数出会す、甚だしきは、全身殆んど表皮剥離し、薄き紙を引けるが如し。盛に渇を催し水を求む。山を越え市内西南部に至る。市内中央部既に火焔に包まる。同夜は同山の西南中腹に野宿す。翌朝病院に引き返す。途中昨日の過労の爲か稍々全身倦怠感あるも他に苦痛を覚えず。同夜も亦野宿の後、翌11日北方約4粁の近郊に避難す。其の間空腹感あれど食思振わず、僅かに握飯を少量摂取せるのみ。1日1行なりし便通なく秘結す。翌12日に至リ全身倦怠感一層著明となり、13日よりは水様下痢・腹痛加わる。動くに物憂し。終日横わる。熱感等を感ぜず。15日夜、同地を去り、郷里山口に帰省す。翌日より下痢一層頻数となり、あまつきへ食物胃中に停滞し、頻りに悪臭瓦斯の曖気あり。腹痛強くして身体を直立する能わず。1週后前記症状軽快し、食思大に振い、漸次元気恢復す。当時上記の胃腸加答児症状は単に食餌性の単純性加答児とのみ考えしに、今よりすれば或は一種の瓦斯中毒の爲ならずやと思考するも確証なし。
全身に火傷なく、脱毛・熱感・出血性傾向等全然なし。顔面の負傷は放置せるに経過遷延し、最初蟹腫性搬痕を形成し、約2ケ月後に至り、漸く瘢痕を認め得ざる程度に治癒す。10月初旬始めて白血球数を算定するに6000にして白血球減少症なし。赤血球数、赤血球沈降速度等は原子爆弾被爆后一度も之を測定せることなし。 |
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オリジナル原稿 |
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