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医家原子爆弾体験記録

医師としての原子爆弾体験記録
教授 古屋野宏平 (60歳)

 当時余は健康にして当日も気分明朗、朝来天気快晴なりしと記憶す。朝8時登学、途上警戒警報を聞く。次で入院患者の廻診中空襲警報の発令ありて回診を中止し私室にて待機す、11時頃空襲警報解除されたるを以て病院正面の本館外科外来患者診察室に行きPolyclinicを始む。此建物は鉄筋コンクリート3階建にして地下室を有す、各層は中間を略々東西に貫く廊下ありて之れを挾み両側に諸室あり、余の診察室は南側に位し、南面して大なるに窓開く、従て此室は爆心(此建物の北西約800米と推定さる)よりするatomic radiation energyに対して上方は屋根及び2床に、又側方は三重の隔壁を以て遮らる。室のやや西寄りに「テーブル」、東寄りに診察台あり、余は両者の中間に南窓を背にし北面して座し居り、周囲に数名の学生、助手、看護婦及び患者侍し居たるが之等の行動に関しては何事も知る処なかりしも後日彼等は大したる負傷もなく生命を全うし居るを確め得たり。
 11時30分頃診察に気をとられ居たる為めか飛行機の爆音など気付かずして、突如「マグネシュームフラッシュ」の如キ怪光を背後の窓より感じ、殆ど同時に轟然たる音響と共に四辺暗黒と化し、四壁の壁土、窓ガラス、器具の崩壊破片驟雨の如く降注ぎ、異臭ある(燐の花火の如き)熱風は襲い来りて暫時呼吸を困難ならしむ。此間約10秒?意識は明瞭なり、やがて眼前に小円形の薄明を認め次第に其大さ拡大し来れり。之れをたとうれば無蓋荷車に乗れる者、汽車が突然「トンネル」中に突進し暗黒裡に機関車の吐く熱煙につつまれたる感と曰うべく、視野の次第に開け来る状亦汽車の「トンネル」出口に近く時と同じ。
 初め余は前日広島市の襲撃に火傷患者の多く出たる事を聞知し居たるを以て突差に診察衣(white calico )を頭より被り腹臥位に床上に伏したり、次で薄明を呈するや否や廊下に向け脱したるも通過困難なるを知り、南面窓より室外庭に逃がる。此時始めて前額より出血あるを知り、尚左肘部に打撲を受け居れることを気付きしも運動に支障なきを以て其まま放置し、一応四辺の情影をながむるに褐土色の雲柱そそり立ち、中天の太陽は為めに血の如き色を呈し、あたかも満州の黄砂を通して夕陽を見たる感ありき。四囲には多数の学生看護婦等皆露出部に火傷様変化(当時は原子爆弾によりものと明かには知らず)を、又身体各所に負傷して鮮血にそまり、阿鼻叫喚さながら地獄の巷を想はしむ。本館の外廓を巡りて余の私室及び手術室等のある建物に近き見るに8月1日250㎏の爆弾命中して窓など全て失える此2階の北面せる室よりは己に火を吹き居たり、(爆発より五分とは経過し居らず)
 火煙の包囲を恐れ教室員と共に東側の丘陵(高さ500米)に逃る、此次暫時驟雨ありしと曰うも記憶せず。途中実傷者は落伍し、又余が外科教授たるを知り身辺に蝟集来る者は多くは広汎なる熱傷を受け強き喝を訴えている。丘頂に達した時無傷の一助手は突然強度の嘔吐を来し歩行不能となる、(此助手は一時助かり居たるも5週後死す、)余は丘を越て市街に下リ、国民学校の急設救護所を指揮し、夜に人り元の丘に登り露宿す。翌朝大学の焼跡に下り学長の重傷を知り、事務を代理す。余の家庭は大学より西北約0.9粁、爆心より0.5粁の地にあり、家は壊焼したるも地下壕あり、仍まま余は罹災後1週間夜は此壕に昼は大学にて執務し、爾後は大学より4粁の市街地に移リ、毎日盛夏4粁を徒歩にて大学に通えり、且つ頭部胸部及四肢に負傷したるも一時助かり居たる妻が2週後頃より高熱(40度)を発し出血性となり重態に陥りしを以て250㏄の血液を供給しやりたるも、更に異常なく大学激務を処理したり。9月上旬雨中大学に往復して後始めて熱発を来す。最高38.5、臥床、36.9~37.5(余の常温36.4前後)を10日間持続、歯齦暗紫色を帯び軽度の出血あり、血液検査白血球4950赤血球357万血色素95%、尿に異常なし。6日間就床、「ビタミン」A、B、C、肝臓製剤、「カルシウム」注射。特に新鮮なる「サムマーオレンヂ」の摂取は功果的なりしと思う。経過半静脈注射を行われたる両肘部に皮下浸潤を呈せしも壊死化膿へ至らず発病第10日日頃解熱し共に吸収消退す。
 爾来暫くは幾分疲れ易かりしも学長代理として肉体的並に精神的激務に堪え、10月半には栄養皮膚色共に平常に復す。然るに血液像は11月に20日白血球440、赤血球328万を示している。
 性慾は一時全く消失、2ヶ月後恢復せるも以前に比しやや稀薄なり。要するに余は爆心より0.8粁の地点にありしも放射線方向に対し、鉄筋コンクリート壁により三重に隔てられ居りしため影響さるる処軽く、単に罹災後4週にして約10日間軽度の出血性歯齦炎、注射部静脈炎、熱発を来したるのみおわりたり。注意すべきは余は爆撃当日より引続き1週間爆心より0.8粁の地点に終始起居し、格別安静加養をとることなく、寧ろ激務に従事したるも9月始め迄全く異和を覚えざりしことなり。


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医師としての原子爆弾体験記録① 医師としての原子爆弾体験記録② 医師としての原子爆弾体験記録③
医師としての原子爆弾体験記録④ 医師としての原子爆弾体験記録⑤  
所蔵:長崎大学附属図書館医学分館


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