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長崎医科大学附属医院 影浦内科副手 古閑達也(25才) |

被爆時長崎医科大学附属医院伝染病棟2階にありて、爆心地点よりの距離は約6、700米南東なり。同病棟は鉄筋2階建にして小生の位置は2階廊下の北端なり。南、西及び北側は病室にてかこまれ、東側は廊下なり。従って小生の身体は南、西北の3側は建物の外廓をなす鉄筋と病室の廊下に面せし戸及び壁とにて2重に外界よりさえぎられていたわけである。服装は上半身は長袖の白ワイシャツ、下半身は白い長い運動ズボンにして、ゲートルを着しその上に白診察衣を着用す。
受持患者診察のため同廊下を歩行中、飛行機の急降下時に似た異様な爆音を耳にしたので、何処かに退避しなくてはと思い終ると同時に廊下に打ち倒され頭部に打撲を受く。其の間光線は全く見えざりしが、これは爆心に近く又外界から2重にさえぎられていた爲と思考さる。又爆発音も聞えたか否か明らかに覚えざるも、音よりも倒されて頭部に傷を受けた方が早かった様に思われる。頭部をひどく打撲されしために、しばらく(約1分位か)意識不明なりしも、漸次恢復し、眼を開くと全く暗黒なり、眼をやられた爲と思い退避も不可能なる故坐したるまま、様子を見る。然して約2分程経過してより上部の方から次第に明るくなり。元の明るさに復し、眼をやられたのではなくて黒煙なりしことが分った。其の間目は開いていたが煙が目にしみる様なことはなく、又無臭なりき。
頭部の出血により診察衣及びズボンは血に染み、尚も頬を伝い出血持続す。又両側手背に5、6ケ所に小過擦傷あり。廊下には天井落下し、壁、ガラスの破片等積リ、小生もこれらの中に腰まで埋りおれり。
次いで破壊されし階段を下り病棟を出るに、その病棟裏にありし、木造2階の看護婦寄宿舎は全壊しおるを見たり、当初は附近に大型爆弾が爆発せしものと思いおりしも、この時に至りて原子爆弾によるものなるを知る。斯くて病棟附近に集まりし4名の看護婦及び患者と裏山に待避す。裏門を出しとき既民家凡て倒壊し、一部より煙の立ち上るを望見す。
裏山に退避後頭部の傷に沃度丁幾をつけ繃帯により圧迫止血す。午后3時頃より悪心嘔吐起リ3回胆汁様の吐物を吐す。又、左眼結膜に充血腫脹及び混濁を来し、又、異物感あり。口渇、全身倦怠感強く畑の中に横臥す。
午后6時頃山を下り焼け残りの町に行く。途中水を3立程飲みしも直ちに凡て吐せり。翌朝よりは熟睡せしためか全身倦怠感もなくなり、左眼の疼痛も軽減したので以後15日まで負傷者の治療に専心す。16日頃より又左眼に結膜炎を起し、疼痛強く、眼を開けておれぬので17日に熊本に帰宅す。
帰宅後は全身倦怠感、食慾不振、軽度の発熱下痢及び咽頭痛ありしため就床せるも、発熱下痢は2日間、咽頭痛は4日間程度にて恢復す、然し全身倦怠感、食慾不振は以後2週間程度持続す。一方左眼は益々増悪し結膜のみならず角膜炎をも併発し、充血、腫脹混濁著しく、爲に視力も殆んど消失し、疼痛、眼脂強し、硫亜水、ジオニン水の点眼をなし、帰宅后2週間目より次第にこれらの症状は消退し3週間目の9月初旬には殆んど快癒す。
血球数検査は9月27日之を行い、3600なりき。
被爆以来脱毛、咽頭出血、歯齦腫脹或は皮膚の出血斑等はなかりき。
1945.11.8記 |
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オリジナル原稿 |
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