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長崎医科大学長事務取扱 古屋野宏平 |
1945年8月9日余等長崎医科大学全員は人類史上空前の科学的驚異なる原子爆弾を体験した。
此日我長崎市の上空は盛夏の陽光燦として照り、地上は生々たる深緑に満ちていた。朝来の空襲警報は午前11時頃解除され、全学は静かに研究に講義に将又診療に執務に各自余念なく没頭せる折柄、突如―夫れは文字通リ晴天の霹靂の如く―怪光一閃大爆音をきくと共に次の瞬間には妖雲天を掩い地上の前物は其様相を全然一変していた。
爆心より1粁以内にある本邦最古の西欧文化輸入の伝統を誇る我長崎医科大学は丘陵上の基礎医学科諸教室及び大学本館(統て木造建築)先づ倒壊炎上し、それより幾分低く且つ爆心より僅かに遠き臨床科教室即ち病院(鉄筋コンクリート建)は輪郭のみを残して内部悉く破壊飛散し次で之れ亦大部分火を発した。
ここに於て学園は阿鼻叫喚の修羅場と化し傷きくたばるるもの数を知らず、偶々講義中なりし基礎科5講堂(解剖、生理、生化学、病理及び衛生)に於ては400有余の学生教壇上の教授と共に其席に壓殺され灰儘と化した。
医院内の者は多く即死は免かれて互に相呼び相援け、生死一髪の間師友の危急に、或は患者の救出に寛く其本分を完くした。併し斯く一時危機を脱した者も爾後時日の経過と共に所謂原子爆弾症を発して遂いに大学教授12名、同助教授5名、薬学専門部教授2名、医学専門部教授5名、事務部員130名、学生々徒420名及び看護婦88名の死者を見るに至った。
我等当時学内現場にあって奇跡的に生命を完くした代表的医師数名の体験記を綴り此空前にして恐らく絶後たる可き記録を残さんとする次第である。記録は草々の間各人自由に之れを記したので体裁区々であるが敢て一定の形式にまとめる事を避けた。
記録を通覧するに爆発瞬間には皆怪光を認め、次で暗黒裡に自己を発見し、やがて視野の黎明次第に拡大し来るに会して自力其場を逃れ出ている、此間意識を失えるものは悉く、多くは呼吸の困難を感じている。爾後の経過症状は概して爆心に面せる側の室にありし者程症状重篤であるが、同一室内に卓を囲み居たる者と雖も必しも一様でない。
唯皮膚の光沢を失して土気色(sallowish pale)となり、赤血球及び白血球の著しき減少又軽重の別あるも多少とも一定期間病感を覚えたる事は共通的である。
療法としては自家体験にても特効的なるものを認めず、統て対症的域に留まる。 |
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オリジナル原稿 |
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