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本院へ来院の顚末 |
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自分が初めて大村病院が大学へ貰えそうだとの話を耳にしたのは、9月24日夕方長崎からの帰りに立寄られた北村教授からであった。同教授の話によると、「泰山海軍病院長(少将)が長崎医専の出身である関係上、医大の将来に対し、全力を挙げて奮闘され、米軍と折衝の結果、同病院は接収せぬからこれに長崎医大を移してmedical centerにする様にとの事である。その為には1人でも多くの教授、助教授、助手、学生達が大村病院に泊り込んで、戦災者の診療並に研究に従事して置いた方がよいから、北村教授と一緒に保養旁々行くように」との事であった。期日は9月26日、大村から新興善国民学校に収容の患者受取旁々バスが来るから午后1時迄に新興善に行けばよいと云う。勿論承諾の旨を伝えた。同夕森君もやって来て同行を希望した。私も是非そうして貰いたいと返事して置いた。
【9月26日】
26日午前9時森君が立寄って呉れたので病歴用紙血球計算用メランヂュール其他身の廻りの品を用意して十時に滑石の自宅を出発し、10時56分の下りで長崎に向った。道尾駅で北村教授にも会った。
新興善国民学校につき、医局で中食をすまし、同校の假救護所で診療の手伝いをして居る学生の案内で2階の病室を一巡しKrankeを2、3人診てやったり、Wundeの説明やらをやる中、時間も来たので医局へ戻り、影浦教授の到着を待った。大村海軍病院から赤十字のmarkの入ったバスが2台とトラック1台とがやって来た。学生達が患者をバスへ運んで居ると「今日は患者をつれて行かぬ様と医師会の人が云って居られる」と僕等の所に伝えて来た。何の事か判らぬので、影浦教授の到着迄待つ様にと返事して置いた。
ややあって影浦教授到着、すぐ市医師会長高尾氏との交渉の結果は次の如くである。即ち「近くこの假救護所が閉鎖になるそうだと云って患者達が動揺して居るから、市としても患者を不安にする様な事はせぬ様に注意された。今日丈連れて行くのを止めて呉れ」と云うそうである。当方では希望者丈を連れて行くのであるから何等差支ない様ではあるが、裏にはデリケイトな事情もあるらしいから兎に角、我々丈行くことにしようと影浦教授も云われる。其中雨が降り出した。
1回かつぎ出した患者も又2階に戻し、バスに乗って居たものも降して、唯医専3年の浜崎君と北郷君の父上丈を同行することとして2台のバスには学生及看護婦2名が分乗し、トラックには書籍をつんで運ぶこととして午后2時新興善を出発した。
矢上を通り、途中米軍のトラックにも出会って雨の中を大村海軍病院についたのは午后4時頃であったろう。直ちに米軍の調査団長Barnettにも紹介され、夕食を馳走になり、第8病棟2階の宿泊所に引取り、各小室に教授、助教授、医局員、大室に学生が寝ることとした。既に先着の学生や看護婦もあり、兎に角今日集ったものは教授3、助教授1、助手及副手6、学生6、看護婦3、であった。
9月24日着 長井(医3)土山(医3)田尻(医3)中村(謙二)(医假卒)
9月25日着 川下絹枝(角尾内、看護婦)吉武マサコ(耳ビ科看)
9月26日着 影浦教授、北村教授、調教授、佐藤助教授、森(調外)二木(婦人科)古閑(影内)小柳(影内)中村 (匡)(角尾内)黒木(皮膚科)橋本(学4)須山 (学、假卒)岸浦ケイ(眼科看護婦)
須山、中村(謙)両君は本年3月假卒業で、海軍短期軍医となり、本院に勤務中9月1日解除となり、再び本院に軍籍を離れてまい戻ったものである。本院の様子をよく知って居て却々都合がよい。
夕方小児科の書籍がトラック1台に満載されて来た。階上の廊下のテーブルの上に乗せて置いた。佐藤助教授はこのトラックでやって来た。
26日夜から翌朝にかけて、影浦教授及泰山院長より聞いた本院大学移管の顚末は次の通りである。
長崎医専出身である泰山少将が、長崎医大の将来に対し大いに心配し、是非何とかして早く再建の道を講じたいとの念願からそれには大村海軍病院を敵の手に渡すことなく大学に移管するのが最もよいと考え屡々、古屋野教授へも建言したことがある。併し海軍病院なるが故に敵に接収される惧れが多分にあるので古屋野教授は初め多少逡巡したが、原少佐(長崎医大卒、衛生教室で仕事した海軍々医)も大いに力説した為、若し敵の接収を逃れた場合は是非長崎医大に貰える様、保利医務局長(長崎医専卒、過日学位も長崎医大で審査した人、海軍中将)へもお願いの書類を去る9月14日、医大假本部(商工会議所 (2階))に於ける、緊急協議会の時も出して居られた様である。
所が一方9月20日に影浦教授の同期生で目下厚生科学研究所員の職にある石川千福氏が長崎に来られ、翌21日の朝、影浦教授と会見された時も、長崎医大の将来に就て話が出、同氏談では「とてもぢっとして居ては埒があかぬから、こちらから働きかけないと物にならぬ」との注意もあり、影浦教授は古屋野教授とも相談の結果、22日に大村海軍病院に行き、泰山少将と会見されたとの事である。当日は土曜日で最早院長は帰宅されて居り、却って外の医官が居なくて都合がよかったと云われる。
当日の談合により、出来る丈沢山の患者を収容し、出来る丈多くの教授以下職員が出かけて行った方がよいとの事でその準備中、24日日曜の朝、泰山院長は自らトラックに乗って長崎に出張し、高瀬、影浦教授と共に新興善国民学校に行き(午前11時)市医師会長高尾氏と面会し、長崎医大復興のことにつき、協力方を懇願し、収容中の戦災者中希望者を大村海軍病院へ輸送する事を申出た所、高尾氏は快く承諾し、自ら学生(長崎医大より手伝いに行って居るもの)達を集めて、大村海軍病院における医大再建のことを話し、「同病院は建物も広く設備も完備し、食料等も十二分にあるとの事だから、其事を患者に伝へて希望者をつのって呉れ」と申渡されたそうである。
(影浦教授談)而も当日午後1時にバスが来るのでそれ迄に希望者を集めて呉れと申込んだのに対しても快諾して、兎に角、患者十数名と学生(長井、土山、田尻、中村謙二)とを乗せ、楠井助教授が引率して大村海軍病院に向った。
一方、泰山少将は、米国側よりYoungが大村に来てるとの報に接し、「それは自分が行かなければ到底駄目だ」と云って、急遽大村に引返されたとの事である。帰ってみるとYoungではなくて其命を授け(海軍)軍医中佐のDicksonが来て居りこれと色々話された訳である。Dicksonとの会談は誠に効果的で、彼は泰山院長に此病院は米国で接収しないからmedical centerにして、一刻も早く長崎新興善校に居る戦災患者を移して治療してやる様にせよ、それでないと患者達がmiserableだと云ったそうである。泰山院長も前から古い歴史を持った長崎医大が全滅して居るから、この病院を提供してそれを再建する積りだ、と述べて話は一応それに決定したと云う。
翌25日、楠井助教授は其報を持って長崎に帰り、影浦教授に会って「大変なことになった。米国側では大村海軍病院を接収しないでmedical centerにせよと云ってる」由を伝え、更に新興善の患者を大村へ送る様にとの事で、又20名内外の患者と看護婦2人(川下、吉武)をバスで大村へ送ったと云う。北村教授が此話を聞いて来たのは24日泰山院長が単身長崎へ出かけて来た日で、第1日患者輸送の時である。26日にもバスで患者を大村へ送るので、それと一緒に行く様にとの事であったので、朝10時56分の下りで長崎へ行き、新興善に直行して、一行と行を共にする事を約した訳である。(前記の通り) |
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3、
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新興善小学校の医大移管決定 |
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【10月6日】(土)
外来には眼の悪い赤坊が唯1人来た。佐野教授に診て貰った。佐野教授は御令嬢が赤痢様の御病気だとかで、薬を持って夕方帰崎された。
夕方北村教授と2人居ると、泰山院長が息せき切ってやって来られ、本日佐世保海軍病院に呼ばれた顚末を話された。昨日の新聞記事がたたって、昨夜使が来て出頭せよとの事で、行ってみると「大村は軍戎保護院とする、大学などにはやらない。何故学生を宿め外来などをやるか」と叱られたそうである。院長は「原子爆弾研究の為に来て居るので、外来を始めたのも皆原子弾の影響調査の為である。この研究は東大、九大、長大の3大学でやるので、東大、九大からも来て居るが人数が少ないので、長大の学生達が協力して居るのだ」と云って来たそうで、学生の宿舎にも「原子爆弾研究員宿舎」の札を貼りましょうと云って居た。尚、佐世保の長官は「医学校など不必要だ」などけしからぬことを云って居た。一体大村の海軍病院が米軍の接収を免れたのは誰の為か。日本海軍では軍医を1ヶ所に集めて軍人を治療しようとすることが既に間違って居る。自分は軍をやめたら代議士となって大いに戦ってやる積りだ等、大気焰を吐いて居られた。全く泰山少将の長崎医大に対する献身的の奮闘には頭の下る思いがする。院長の話によると大村海軍病院は11月一杯海軍として存続し、院長は15日で交替となり、泰山少将の代りには大佐の人が来て(熊大出身)部長2人も15日に更迭になるそうだ(共に長大出身)。12月1日には厚生省に移管になるかも知れぬが、大学は手早く交渉して厚生省から貰ったらよいでしょうなど云われた時は実に心細い気がした。夕食后北村教授と影浦教授を乗せて来る筈のバスを迎ひ旁々東浦方面を散歩したが、バスはとうとう帰って来なかった。
夜に入って影浦内科教室の森沢君が来て僕宛の教授の手紙と言伝を渡した。それは、新興善校を大学で貰うことに決定したから明後日高尾氏と進駐軍本部にPlanを持って行く様にとの手紙であった。僕が院長に目されて居る関係で書かれたものらしい、教授は明日出発して福岡に向かわれるとの事。
新興善が確実に大学のものとなったのは嬉しかった。泰山院長には明朝お話して2人で長崎へ出発することを約し寝についた。
横山君は8日から学生が大村に大勢来ると宿舎がせまくなるから移転したいと1人で大童になって居た。9病舎及10病舎を北村教授と3人で検分し、9病舎2階を教授室、大室を講堂兼食堂、階下を教室員(小室及中室)と学部学生の宿舎とし、10病舎は助教授諸君(2階小室)及医専学生の宿舎とした(階下大室)。今明日に掃除して移転を完了する様学生の須山及中村に云い渡した。午后9病舎に行ってみると6、7人の学生と2、3人の看護婦とがベットの整理(10病舎に移すこと)で盛んに活躍して居た。須山、中村、長井、土山達は何時も実に真面目に働く。
【10月7日】(日)
朝、北村教授と2人で泰山院長に会い、今日長崎へ急行すること及其理由を差支ない程度に話し、8時半のバスで長崎へ向った。
先ず新興善に行き高尾医師会長に面会し、新興善移管問題につき協議し、影浦教授と高瀬教授とが2人で書かれたと云う図面を貰い受けた。高尾博士の話も大体高瀬教授の話と同じで開業医達は既に開業の希望を持って居るので、大学に移管することにしたと云う。
本部へ行って佐野教授に会ってみようと思ったが、後のことにして滑石へ向った。
自宅では朝鮮から無事に帰って来た弟の源之助が来て居て、朝鮮の話など色々出て時間をつぶしたが、夜に入って図面を書き影浦教授方のPlanに大改変を加えてこれならばと思う奴を書き上げた。
新興善校を大学に貰うように決定したのは10月6日で、その使者には影浦教授が行かれ、Horneから貰い受けられたものと思う。10月5日には僕は大村海軍病院にいた。明後日云々とあるのは10月8日のことである。
【10月8日】(月)
朝雨の中を長崎に向い、新興善に行く。高尾氏に会い市長等の来着を待って、自動車で出島の税関に行った。此処は長崎進駐軍の本部で此処に居るpublic health officerのCaptain Horneに面会した。此処は大勢の係員が居てタイプライターを打ったり大声で話をしたり、外では自動車の警笛がなって実に喧しい部屋だったので思い通りのことを落ち着いて話すことは出来なかった。先ず新興善のPlanを見せた所、これで大体よいがと云いながらWaiting roomを作れだのRecord roomを此処にしろだの、Operation roomをこんな風にしてなど云って、色々の新しい部屋を作るのでBedroomは自分の作ったPlanよりもずっと少なくなり、Bed数も500はおろか245しか出来ぬこととなった。これでよいかと云うのでvery goodと云って置いたが、お蔭で外科の診療室がなくなってしまった。どうせ実際の場合には又改作せねばなるまい。Horneに何時から初めるのかと聞いたら早ければ早い程よろしいと云う。然しBedもなければfurnitureもない。bedは大村海軍病院には沢山あるからそれを持って呉れば、すぐにでも間に合うが、泰山院長を知って居るかと聞いたら、知らぬと云う。大村海軍病院が長崎医大で貰うことが出来たら、新興善病院の設備も早く出来るだろうと云って置いた。窓硝子はHorneが県庁の方に交渉して早く手に入る様取計って呉れるそうだ。
自分が提出した図面は大体左の如きものであった。所が1階では講堂内のBatheroomとDining roomとを逆にし、Laboratoryを略してRecord roomとなし、Surgeryの所にWaiting roomとし、Operation roomをAdmission officeにした。2階では右翼のLaboratoryの次のBedroomを矢張りLaboratoryに、其次をReception roomにせよと云う。3階では、右翼のB.Rを皆Operation roomに改造し、下の方から産室、洗濯室、外科手術室、其他の手術室、次に2室丈とってPost-operative Roomとした。これなどは却々よいと感心した。尚看護婦長室を作った事は亜米利加らしい。
新興善がすんで市の伝染病院に移り、市長と市の衛生課長とが色々説明して居たが結核を同時に置けと云われ、困っていた様だ。12時過ぎに話がすみ、新興善に帰り、中食をすまして本部へ行く途中東大のト部君がジープに乗ってやって来た。大学本部に行くが乗らぬかと云う、雨も降るので乗せて貰った。用は長大の顕微鏡を借りたいと云う。行ってみたがない。自分の内に2台と大村に10台程あるからそれを貸してもよいと話し又、新興善に引返し、ト部君がDr.Tarnowerと交渉した結果、僕の内にある2台を貸して呉れと云う。Major Brunerと共に自動車に乗せて貰って滑石の自宅に帰った。Brunerは鎮西学院に17年、領事館に5年も居た丈あって日本語がとても上手だ。宅で柿、栗を馳走しながら子供達とも色々話して居た。
Brunerが帰ってから北村教授を訪い今日の一切を報告した。
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4、 |
大村海軍病院での講義開始 |
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【10月9日】(火)
11時の汽車で長崎に行き、本部へ行って白方事務官に初めて面会した。新興善のPlanを見せ、事務所を新興善へ移すことに関し、高尾医師会長と会談する為、事務官と柴田と3人で新興善へ行ったが高尾氏は不在で橋本氏と有富氏が居て大いに気焰を上げて居た。
僕はBrunerをとらへて約10分間談じ込み、大村海軍病院を長崎医大へ貰う運動の困難なこと自分達残留組が皆心配して居ることを語り、協力を要望した。Brunerの力では勿論何とも出来ないことであろうが、1人でも多くの味方を得ることは此際望ましいことなのでBrunerから其周辺の人達に披露してもらう様にお願いして置いた。
Brunerは永く日本に居た丈日本語は上手だし、海軍省・厚生省等の言葉も判り、人物も温厚で甚だ好都合であった。彼は「此喧嘩は大変六ヶ敷しいですね。心配して居ることは時々成功しないことがあります」など教訓めいたことを云って別れた。
それから大村へ行く積りだったが雨も降り、バスも行ってしまったし、靴も洋服も濡れてしまったので又滑石に引返した。
大村では今日から学生達への講義を始めたそうで、皮切りは小児科の佐野教授とのことであった。(この一文は昭和54年世界10月号より引用)
【10月10日】(水)
雨は降り風さえ加って暴風雨模様だったが、北村教授も多分今日行かれるので、汽車に乗っても今日は是非大村へ向うことに決心して、北村教授を訪うともう8時の汽車で出かけたとの事であった。依て急ぎ準備して10時の汽車に乗り込んだが、大村への連絡がなく、諌早で3時間待って大村に下車し、徒歩でずぶ濡れとなり、二三度田園の中に吹き倒されて3時頃漸う海軍病院についた。
佐野教授も同じ汽車だったそうだが、諌早から2里の路を歩いて自分よりは少し早く到着されて居た。北村教授は勿論午前中に到着された筈である。3人で僕の長崎出張の用件を報告旁々泰山院長を訪問すると、僕等の留守中、院長の方にも色々の事件があったそうだ。即ち大村の進駐軍司令部から立派な自動車で自分を迎えに来たので行ってみると軍政官らしいものが、大村海軍病院はどうする考かと聞いたので、「これはmedical centerとして診療、研究、医学教育の機関として存続せしめ、長崎医科大学を此処で再建せしめたい希望を持っている。日本軍当局では之を軍戎保護院として使用し、傷夷軍人を収容し軍医が之を治療する様考えて居るが自分は之に反対だ」と答えたと云う。軍政官もこれに全面的に賛成したと云うことである。その軍政官がCap.Horneの様でもあるが判然しない。併し自分がHorneに会った後に院長もどうやらHorneに面会したらしい様子であるが、院長はHorneを確実に知らないので其処の所がどうも判然しない。若しHorneであったとすれば誠に結構なことであると思う。尚先方では薬品材料のことを聞いていたそうであるが、1,700名の患者を1年間治療する丈保管している旨告げるとOh very goodと双手をあげて賛成したそうである。何も材料を取り上げる積りではなく、足りなかったら寄附でもしようと云う腹だったらしい。これも院長の話である。
来る16日には軍政官外3名程が病院及在庫品の点検に来るので皆も立会って色々懇談したらよいだろうと云うことであった。其時迄に古屋野教授(教授が東京に行って居られることも先方が聞いていたので話して置いたと泰山院長は云う)が東京から帰られれば誠に好都合であるが、若し間に合わなかったら影浦教授を立会わせることにして院長と別れた。
病院から佐藤(調理所)君が来たので泰山院長に引合わした。院長はすぐ僱入れたいから履歴書を出して貰いたいと云う。
【10月11日】(木)
暴しはないだ。未だ影浦教授も福岡に行かれたきり帰りがない。北村教授、佐野教授と3人外来をみ、病室を廻診して午前中を過した。午后は1時から2時半迄外科の講義。9病舎の2階大室で学生(医2、3、学部3、4)、假卒業生、医局員等を集めて約4〜50名。今日は先ず感想を述べ、次に原子弾症の事について一通り話した。
此講義は佐野教授が皮切りで、9日(火)の午后から初め、次の様な時間割りも作ったそうである。
様子が変って何だか変だが、段々馴れて来るだろう。明日は胃潰瘍の患者が入院して来るそうだから臨床講義でもやろう。3回共自分ではやり切れない、早く木戸君か古屋野教授か帰って来て欲しい。
午后3時迄、白方事務官、柴田、井口高商事務官の3人が来院した。白方事務官の話では新興善に行ってみたが未だ小学校の先生が居て市から、話を聞いていないとの事であったと云う。早く何とか話を片づけて貰わねば困ると云う。尚、新興善を貰うのは土地、建物を文部省財産にして貰えるのか、一時借りるのか、それによって施設も手加減しなければならぬと云う。此等の方針は教授達が集って早く決定してやらねば事務官としても困るだろう。尚色々問題もあるので一度適当の時期に自分も東京にやって貰わねばならぬだろう、と話していた。其処へ泰山院長が入って来たので初めての挨拶をし、院長からも16日に米国軍政官が来るので其時事務官も居た方がよかろうと云って居られた。事務官は15日に来て其夜教授会をなし、1泊して16日には是非方々を見せて貰う由答えていた。事務官達は5時に汽車に乗るべく病院を辞した。
院長は海軍の医官達には一斉に休暇を出すので、長大其他の先生方に主任になって貰って責任を持って貰いたいとの事であった。それは明朝病舎に貼り出させるから、もう医官達に遠慮せずにどしどし思う通りやって呉れと云われた。どうも海軍との喧嘩の味方に引込まれることは気持ちが悪いが、長崎医大再建の為には万難を排しても戦わねばならぬ。自分は3病舎及4病舎の主任になるらしい。其他は九大貝田助教授、東大吉川助教授、長大筬島助教授達だ。
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8‐9 |
13‐14,15 |
月
火
水
木
金
土 |
婦人科
外 科
内 科
皮膚科
内 科
泌尿科 |
内 科
小児科
精神科
外 科
外 科 |
【10月12日】(金)
午前中病室、外来、餘り面白い患者も来ない。
午后講義Ulcer of Stomach on the surgical stand pointと云う題でお話した。患者供覧。
午后4時頃、影浦教授、高瀬教授来院。高瀬教授はすぐ帰られたが、影浦教授は本朝博多より帰崎、バスで大村に来られ、其侭宿泊された。3人で泰山院長を院長室に訪ねた。例によって院長の方から話し出され軍医連中は一両日中に登庁を停止するから皆大いに頑張ってやって呉れ、成るべく多数の職員が病院の方に来て置いて欲しいと云うので、明日のバスに託して連絡をとる事にした。夜3人でおそく迄駄辮る。
【10月13日】(土)
9時4病舎廻診。
8時半影浦教授は手紙を白方事務官に書き、1、事務官は14日に大村へ来ること、2、長崎医大では陸海軍学校の生徒を1人も受入れぬことにしたから、皆断ってって欲しいこと、3、電報を残存学生(影浦教授の知己)へ打つこと、等を申送られる筈だったが、既にバスは出発して居て駄目となったので、今日長崎へ帰る医専2年の内藤君へ託することとした。
中食後、外来に来て居るMagen geschwürのKrankeを見る。
手術希望なので入院させることを早田君に云い渡して大急ぎ、大村市内行きの定期バスに乗り込んだ。学生の病舎配置の件で影浦教授、北村教授等と集ることになって居たが、あとは2人に頼んだ。
大村では駅前、大村保健所の枝坂氏を訪い、陸軍病院に電話をかけて車を呼んだが何時迄も来ぬので結局歩いて行った。好天気。チョッキを着て居ては暑い位。陸軍病院に行ったら、空ベット数を聞いて来て呉れとの泰山院長の頼みで聞いてみたら300床ある中、50~60床丈ふさがって居る丈だとの事だった。軍医は尚15人程確保してあり、何時傷夷軍人が南方から帰って来ても差支ない様にして居るとの事だった。病院はきたない。大村海軍病院とは雲泥の差だ。4時病院を辞し、ダットサンで西川病院の福田氏(兵器部長)を訪ねた。もうすっかり恢復して居るが、唾液瘻が出来て弱っていた。
5時半辞去。ダットサンで行く中、米国のジープがやって来、Schwartzが乗って居て「これに乗れ」と云う。乗り替えて病院へ帰った。
夜6時半から食堂で西洋人達と会食。集るものDe Coursey, Warren, Tarnower, Perry, Ebert, Sinclair, Berg外1、2名。日本人側は東大の連中、長大、九大の貝田君、食后各人の研究報告があり、東大の連中も一場の報告を英語でしていた。米国人のはさっぱり判らず、日本人のでは吉川助教授、岸本君のは良かった。吉川君のはAnaemiaの原因に対する考。貝田君のは年齢による抵抗力の差異、岸本君のは胃液検査、尿高田氏反応、骨髄像等に就て、三宅助教授も解剖の結果に就て話していた。長崎も何かやる様に云われたが準備して居ないので此次にと云って逃れた。閉会は午后10時過。出席、影浦、北村、佐野教授と余の4人。部屋に帰り又暫らく話し込む。
【10月14日】(日) 快晴
今日は我が長崎医大にとり誠に慶質すべき日であった。
朝病室へ出かける途中De Courseyに会うとI'm glad to see youなど云う。朝の挨拶には少し丁寧だと思いながら別れた。これから大村に行くのだとの事だった。廻診をすまし、部屋に帰って日記などつけて居ると、院長が11時半頃影浦教授の部屋に行って、何か嬉しい報告をして居るらしい。
北村教授、佐野教授等もついて行くので、あとから追いかけると院長は又僕に今日の吉報を繰返して述べた。それは次の通りである。
今日De Courseyが大村から長崎の進駐軍本部へ直通電話をかけ、Horneに大村海軍病院の話をした所、先方からは長崎軍司令官の発表として「大村海軍病院は長崎医科大学に移管し西九州地区に於けるMedical centerたらしむべし、以上はMc Arthur司令部に上申済み」とあったそうである。自分は思わず快哉を叫んだ。現地の運動が功を奏したのだ。萬歳だ。祝杯を挙げたい所だが酒がない。古屋野教授にも知らせてやりたいものだ。此上は鮮かな米進駐軍の所置に順応して少しでも早く実現させねばならぬ。新興善と大村と両々相俟って舞台は急に大きくなった。活躍だ、飛躍だ。男の腕の見せ所だ。
中食に行くと安木二部長が淋しそうな顔をして食って居た。何だか気の毒の様でもある。然し岩国海軍病院長として赴任するそうだから彼自身には余り関係はないが、西田一部長は盛んに暗躍して大村に残ることにしたのだそうだから今后どうなるか。大村に家をかい、子供達を大村中学に転校させ、色々と計画して居たことが水泡に帰したことを思えば、本人としては誠に遺憾であろうが、大局の然らしむる所如何とも致し方はない。思えば泰山院長の外交手腕は実に見事で、長崎医大は何と云ってお礼申上げてよいやら、感謝の辞を見出し得ない有様である。
午后東大の吉川助教授とト部君とが来て、新興善の善後策につき相談した。当方としては早く患者を当院へ移し、唯原子爆弾患者の外来診療のみを残し、他の室は片づけて修理改造し、出来る丈早く再度外来診察の出来る様計りたいと思う由を伝えた。東大の方でも凡そ一片ついたからあとは長大の方に米軍医への協力方をお願し度い意向の様であった。
午後4時頃事務官が来た。新興善の件、大村海軍病院の件、古屋野教授へ打電の件、合同慰霊祭の件、卒業式の件等打合せを行って居た所、突然東京から林先生(名誉教授、科学研究会長)木下博士(工業大学名誉教授、学研会員)其他事務官2人が来られ大騒ぎとなった。両先生方は原子爆弾空襲の当時の様子を色々聞かれた。泰山院長は早速夕食の事、宿所の事等を斡旋し、両先生は外国人と一緒に、他は別室で食事をとる事になり退出。其后は御茶菓子の乾パンを食べながら例によって駄辯った。
尚書き遅れたが、夕方事務官が来た後、泰山院長が我々の室に来られ、佐世保の長官来訪時の話をされた。それは本日午后4時、佐世保から長官及軍医長が来訪されたが、其時Dr.Warren及Sinclaireが立合い、院長が「本日長崎進駐軍司令部から、大村海軍病院は長崎医科大学に移管し、長崎地方のmedical centerたらしむべし」との司令があり、medical centerとは診療、医学教育、研究の三者を兼備したものを意味するから、軍戎保護院としては使用出来なくなった」と述べ、Warren, Sinclaireは之を裏書きしたそうだ。長官達は本院現役将校達を集め「進駐軍司令部でそう云うなら仕方がない。お前達は川棚へでも行って貰う様になるかも知れない」と云い渡したそうである。尚長官は、大村を軍戎保護院にすることは、佐世保進駐の第5艦隊の軍医長Youngが承認した由を云って居たそうであるが、院長は第5艦隊よりも長崎の進駐軍本部が既にそう決定して居るのであるから仕方がないとはっきり申伝えたと云う。
其後、Warrenは明日佐世保に電話をかけてYoungにつまらぬことを云わない様伝えるそうである。もうこうなれば十中九分九厘迄大丈夫のものと思う。明後16日には軍政官一行が病院に来るそうであるから、其時本決りになるであろう。
【10月15日】(月)
林先生達は知らぬ間に長崎へ行かれた。
午前中に廻診、廻診中に看護婦達に総員集会の命令が来て居た。電話で院長室によばれたので行ってみると、農業会の人が来て居て、牛の処置、及牛乳の契約があって居た。牛は18頭居るが、昨夜の中に6ヶ月分の飼料が全部なくなったとの事である。それは何処かへ運んで燃してしまったそうで、誠に言語道断のことである。西田部長の仕業だと院長は云って居た。牛は皆農家に拂下げ、種牛は農会長の希望により無償拂下げをなし、其代り乳牛から出る丈の牛乳を10月一杯無償でおさめることを約束して居られた。18頭も居て1日2斗との話であったが、これも横流れして居たものであろう。鶏は230羽居たものが、今日では僅かに50数羽になったとかで、これも院長大いにあきれて居られた。戦に負けたとは云いながら、日本人は何とだらしない国民か、まるで野蛮人と同じで、これだから日本が負けたのも無理がない話だ。
院長の取次で米軍doctorにList of physicianを提出した。
患者の治療は長崎が引受けることになった。
受持は(次頁の様に決めた)。
院長は士官室の当直もやって呉れと云う。次(頁)の通り決めた。
尚院長の希望ではないが、各病舎にも1人宛当直を置く様皆に申渡して置いた。中食の時自分から上の事を云い渡した。
午后1時半、長大の診療員全部、東大、九大の連中を庁舎会議室に集めPerry, Le Royも来てLe Royから今後の方針につき話しがあった。院長も居て長大諸君に色々の注意を与へた。明日から午后1時半に会議室に集り、研究及診療に対し、評議をしたいと云って居た。そしてPenicillinの効果に就て一言して居た。本院に入院中の原子弾症患者は男90名、女74名で合計164名あり、本日2人死亡した。WarrenがSektionをやるのを見に行ったが、手際は却々鮮かであった。4病舎の老婆はAtrophie以外に何も特別のBefundがなかった様だ。A.pulmにPetechienのあったのは一寸変って居る。Inanitious tod?死因を聞いたが判らぬと云って居た。今1人は17歳女、Miliar tbcで見事なものであった。
夕方横山君及筬島君来院。筬島君の話では、進駐軍から旧大学及病院内に死体があるから片附けること、学内焼跡居住者を追払って番人を置くこと等、注意があったそうだ。中山衛生課長がわざわざ本部迄来たとの事。
北村、横山教授とも打合せて、学生を連れて行き至急清掃に従事することに決定。自分は明16日夕方長崎に行き2~3日滞在して、大学及新興善方面の交渉に当る積りである。
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教授 |
主任 |
診療員 |
1病舎
2病舎
3病舎
4病舎
8病舎
15病舎
11病舎(伝染) |
北村
影浦
調
調
北村
影浦
佐野 |
一ノ瀬
森沢
森
木戸
筬島
筬島
浜田 |
本多、二木、黄、金子
古閑、黄、林、中村
鍬先、岩永、松本
須山、藤井、中村
大倉、大坪、早田、野田
高橋、中村
高橋、中村 |
15/10
16
17
18
19
20 |
月
火
水
木
金
土 |
一ノ瀬
森 沢
本 多
高 橋
筬 島
浜 田 |
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21/10
22
23
24
25
26 |
日
月
火
水
木
金 |
森
木 戸
金 子
一ノ瀬
森 沢
本 多 |
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27/10
28
29
30
31 |
土
日
月
火
水 |
高 橋
浜
筬 島
森
木 戸 |
【10月16日】(火)
今日は軍政官が当院を訪問すると云うので、朝から院長は右往左往して居る。学生に道路の清掃をやって貰いたいと云うので、外科を休講し、横山教授に頼んで監督して貰った。各病舎の入口に診療主任の名を貼り出すことは自分が字を書いて庶務に頼んだ。学生の中には皆が掃除に行ったのにも拘らず、碁を打っているものが居た。
長崎から来た米軍使はCap.Horneで院内を検分し、泰山院長の説に大いに賛成して「大村海軍病院を長崎医大に移管し長崎地区のmedical centerたらしむる」旨の文書をタイプライターで書き之にsignして直ちに佐世保に行きYoungに交渉すると云って居たそうである。僕等はHorneには面会しなかった。
午后、影浦、北村両教授と3人、泰山院長を訪問し、北村教授と2人は新興善病院整備の為、長崎へ向う由を告げ、其時院長より、本日Horneとの交渉の一通りを伺った。院長はHorneが佐世保に行って交渉すればもう大丈夫で、本院は長崎医大のものになったのも同様だと云って居た。所へ大村市長も来たので自動車に乗せて貰って大村駅に行き汽車(4時)に乗った。市長は駅長に岩松駅を少し北へ移して大村海軍病院へ行くのに便利な様にして貰う交渉をするのだと云って居た。2人は6時滑石に直行し、それぞれ自宅に引取った。今日は何となく愉快だ。
【10月17日】(水) 神嘗祭
朝8時の汽車で浦上下車、久し振りに大学の焼跡に行った。恐らく弘治の骨拾い以来のことだろう。50日振り以上になる。話の通り品物が色々少くなって居る丈で大した変化もない。眼科では小笠原君が学生看護婦と一緒に本の整理をやって居た。調外科の東病棟でびしょ濡れになったKriegschirurgieを戦災記念に持って帰ることにした。それと器械の部分品を何かの役に立つかも知れぬので持って行った。11時頃から徒歩で新興善に向った。つくと古屋野教授が帰られて居ることを耳にした。又交渉が思わしくなく止むを得ない場合には、少し建物を借りることを約束して来たとのことであった。自分達は現地で全部を貰う約束迄したのに、態々東京迄飛行機で行ってMcArthur司令部へは行かずにそれ丈の成果とは情ない。却って行かれない方がよかったと口惜しく思った。
高尾氏室で古屋野教授に会ったので、昨日大村海軍病院での話をすると、教授は今朝Horneと会って来て悲観的のニュースを聞いて来たばかりとの事であった。それによるとHorneは昨日佐世保に行ったがYoungとの交渉がうまく行かず、昨夜大村にも立よって「自分の権限ではどうにもならぬ」由を告げたそうである。恐らくYoungが既に佐鎮長官に「軍戎保護院にしてもよろしい」位の言葉を与えて居る結果に違いない。長崎のHuntと佐世保のYoungとが如何なる関係にあるのかが一寸不明だが、こんなことになるのなら我々もここ迄引ずられずに何とか方策があったのかも知れぬのに、と一寸厭な気がした。
大村から佐野教授が帰って弘心寮に居ると云うので、古屋野教授と一緒に行った。昨夜Horneの大村に於ける話も結局、今朝古屋野教授が司令部で聞いた話も同じで、事は多少面倒になっているとの感が深い。泰山院長はどう考えて居られるか。長崎医大も重ね重ね苦難をなめさせられるものだ。
新興善の本部で鍬先氏に会い歩きながら町に出たが、米兵が沢山散歩して居て喜楽館も開き米兵も入場して居た。3時頃の汽車で帰る。 |
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5、 |
医大本部を新興善に移転 |
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【10月18日】(月)
9時新興善につき、高商の本部に出かけようとすると、本部から荷物を運んで来たと云うトラックがついた。向って左の1階の室に決めて机、椅子を搬入し、事務所が出来た。2階の村上君達の居る部屋に行って、額ぶちのこわれを利用して看板を作った。これを門にかかげ、今迄の看板は入口の右壁にかけた。

一通り机も並んで庶務らしくなった頃、高尾氏が来られて、次の様な話があった。
今日Horneから呼ばれたので行った所「今日午后大村海軍病院を長崎医大に移管する件につき、佐世保の司令部と話合ったが、自分等の権限外でどうすることも出来なかった。就ては今日午后1時半から知事室に於いて、佐世保と長崎の米軍司令部のものが行って連絡会議をやる積りだから、お前(高尾氏)と古屋野教授が居たら一緒に出席する様に」との事であったそうである。古屋野教授は大村に行って留守だから自分がobserverとして出席することにした。
1時半に県庁に行ってみるとやがてHorneだけが来て知事の所に行こうと云う。通訳として西村嬢をさがしたが留守だったので、初めは外人通訳、後には日本人通訳がついて話が始まった。
Horneの云う所は、「長崎では医科大学病院がなくなって、沢山の病人を診療することは出来なくなったが、大村海軍病院が長崎医大へ移管になれば、これを長崎県の病院として沢山の患者を収容することが出来るが、皆はどう考えるか。長崎市では新興善病院、大浦陸軍病院、傅染病院(銭座校)が出来てこれで市民の病人をみるが、これで足りない時は大村に送って入院させる。又長崎県の病人は大村で治療される。これは大変よい事と思って、自分は色々奔走したが、自分の力ではこれを決定する事が出来ない。これを決める為には長崎の連絡委員長(知事)と佐世保の委員長が協議をして、其れによって決定した事をアメリカの司令部に云って呉れればMc Arthur司令部に上申するから其通りに決定するだろう。尚自分は古屋野教授が、大村病院は既に文部省に移管になったと云った事を噂に聞いたが、若しそれが真であれば、協議は不用かも知れぬが、それが間違って居た場合には出来る丈早く協議して、自分の所に知らして貰いたい。」と述べて帰って行った。其後で知事は自分、高尾氏、岡田市長を呼び止めて「今Horneの云った事を其侭云うと、佐世保の連絡委員長は鎮守府長官だから却々ウンと云うまい。アメリカの方でこんな弱腰を見せると是が非でも軍戍保護院にすると云って協議は決裂するかも知れぬ。それよりも多少修飾して「アメリカの方では大村海軍病院を長崎医大に移管してこれをmedical centerにすることを極力熱望してるが、それを長崎と佐世保の連絡委員長が連名で上申すれば事は誠に簡単ですぐにでも運ぶ様に云ってるがどうか」とでも云わなければ駄目だろう。或はこれは寧ろ長崎地区丈の希望として直接委員長名で陳情書を提出した方がよいかも知れぬ。何れ2、3日中には、佐世保に行く用もあるから、何とか善處しようと申された。自分達は宜敷く頼む由を述べて引下った。
Horneの話の中に、長崎では子供達が学校がなくて困って居るから、大浦陸軍病院を大学で使う様にしたらどうかとの話も出たが、知事及市長は、それはとても小さくて長崎中の患者を収容する事は出来ぬ。小学校は外にも出来るから新興善を使用しても少しも困らぬ」と大変大学に同情した言葉を述べて居た。Horneは尚、新興善は元々学校だから病院にするのは大変だろうと云ったが、自分は文部省から金が出るから出来る由を答えた。
以上で市長と高尾氏と3人で市役所迄来たが、岡田市長は大学が長崎から全々離れると困る、新興善があれば関係もついて居るから将来長崎へ帰って来るにも都合がよいだろうと云って居た。
書き落したが、県庁の連絡会議の席上、自分は一般の委員達に向って大学の立場を述べて置いた。「長崎医大は創立の初めから長崎市とは切っても切られぬ縁があるので、古屋野教授は極力、当地に大学を再建する様、考慮されたが、適当な建物がないので大いに困惑されて居たが、丁度其折に長崎医大出身の大村海軍病院長泰山少将が尽力されて、大村病院を米軍に接収されるのを防がれ、米国側に対してもこれを長崎医大に移管してmedical center即ち教育、研究及診療の機関たらしむる承認を得られたのであります。但しこれは結局暫定的なもので、将来長崎が復興する際は、大学も必ず長崎に帰って来る考でありますので、この点は了承の上、現在困って居る教育の為、大村病院を大学に移管される様皆様の御援助をお願いする次第であります」と述べた次第である。此点では誰も異存はない様子であった。
4時近く新興善に帰り、5時の汽車で帰宅する積りであったが、大雨の為7時の汽車となり、家についたのは8時であった。食后今日Horneに頼まれた、長崎医大被害状況の図面は停電の為、書くことが出来ず明朝にして其侭床についた。
【10月19日】(金)
朝、大学一覧を手本にして図面を書き赤(焼失)青(倒壊)の色採をして、10時56分の汽車で長崎へ行き、Horneに手渡した。何に使うかと聞いたら、原子爆弾の研究の為だと云って居た。2日程貸して呉れとの事であったが、気前よく呉れてやった。嬉しかったと見えてvery good, thank youなどお世辞を云って居た。本部で又高尾氏に会った。今日又進駐軍本部へ呼ばれ、今度はGalloway大佐から陸軍病院の経営をお前やれと云われ、困って居るとの事だった。耳ビ科の橋本氏も一諸だが、其他医者を集めよと云われ、自分としてもそんな事に何時迄もこだわって居ては何にも出来ぬので弱るが、アメリカの事であれば仕方がない。其時は大学から人をよこして貰いたいと申入れられたが、自分は「大学も方々に分れて病院を持つので其処迄手が出せるかどうか」とあいまいな返事をして置いた。
新興善の大学への移管は来る23日に引継ぎをしたいとの事だった。大体承諾して置いた。詳細は其時決定する積りである。
薬品は米国から貰ったものは大半なくなり(医師連中が持って帰ったものが多い!)残部は市のもので、これも各自立替えてあるのでその方に当てなくてはならぬだろうとの事であった。尚、毎週米側から薬を呉れるがそれは唯受取丈やればよいそうだ。
事務官は看護婦の事を心配して居たから待機のものへ手紙を出して至急出崎する様云い伝えた。宿舎は寮を1つあけてそれに入れる様にと云ったが、それでは足らぬのでお寺を交渉してみようと云って居たから承認して置いた。
大村への言伝としては(1)、合同慰霊祭を大体11月1日位に浩台寺でやりたいこと、(2)、米、原子弾研究員が雲仙に行きたいとの申出につきバスは県当局に交渉した結果出来たが、木炭車の為小浜迄しか行かずホテル迄は登れないこと、等であった。
午后4時過大村着、古屋野、北村、佐野教授が居たが、佐野教授は上京の為4時の汽車で長崎へ向った。用事は学長推薦の件(古屋野教授)及厚生省へ交渉の件だそうだ。厚生省へ行くのは早晩軍戎保護院になれば厚生省のものとなるので、予め大学移管の件を交渉して置く為である。幸い影浦教授同期の石川氏も同省に居られ、佐野教授も外遊中知って居るとの事であった。自分は南門の柵迄送って行き、道々昨日の県庁連絡会議の事を話し、厚生省へ行ったら「長崎医大は大村病院を措いては今の所再興の道はない。軍戎保護院は大村でなくても川棚病院で差支なく、若し川棚が共済会財団法人のもので金が要るとの事なれば、54万円程出せば手に入るので、文部省から基金を出して貰って海軍へ譲り、其代りに大村病院を貰う様交渉した方がよかろうと述べて別れた。
帰って古屋野教授、北村教授と3人で又色々に協議した。聞けば昨日後任院長が来た時、自分はHorneから来週火曜迄院長の職責をとる様にと云われてる旨を述べて事務引継を延ばしたそうで、其為新院長は佐世保に引返し、泰山院長が事務引継を拒絶したので帰って来た由をつげた為、本日佐世保に出頭せよとの命令が来、若し行かねば軍法会議に廻る惧れもあるので古屋野教授は出頭をすすめて今行っている為留守だとの事だった。
留守の間に事態は急速に悪化して居る様に思われる。昨日古屋野教授は佐世保に鎮守府長官及Youngに会いに行かれたそうだが、Youngには会わずに海軍側にのみ会って来たそうだ。即ち初めに佐世保滞在中の内政部長に会って話した所「海軍の事は海軍の方でやってるので」と俵中佐に紹介して呉れ、俵中佐に会うと、何の訳だか知らぬが「長官に会ってもDixonの事は話して呉れるな」と古屋野教授に嘆願したと云う。此点に海軍としても大きな弱点を持って居る様だ。 長官には唯挨拶程度の会見に終ったが、印象から云うと「医学教育は必要がない」と泰山院長に云った事が充分うなづかれるtypeの人だったと云う。長官も俵中佐も古屋野教授がYoungに会うことを止めたと云うが、其処にも彼等の弱点はある様に思う。矢張大学としては是非Youngに一応会見してよく事情を説明し、Youngの考を飜へさせるより外に手はない様にも思われる。泰山院長は是非一応Youngに海軍病院を見せて、とくと説明してやりたいと云って居られたが、それが一番近道だろう。
【10月20日】(土)
朝、影浦教授来院。佐野教授と行違いとなる。昨夜は佐野教授には会われなかった由、午后又「佐野教授に面会して東京に行ったら石川氏(厚生省)に是非会う様頼むから」とて大村をたち長崎へ向われた。
朝9時の汽車で古屋野教授も長崎へ行かれた。出発前泰山院長から余に電話がかかって来て、長崎へ行かれたら永野知事に是非一度大村へ立寄られる様伝えて貰いたいとの頼みがあった。直ちに古屋野教授に伝えた。電話で泰山院長は大いに昂奮して居り、今度の新院長は杉山鎮守府長官と同郷で其為故郷にも遠い此地に病院船の航海回数が未だ1回残って居たにも拘らず転任させられたもので、結果泰山院長撃退策から出たものらしいとの事。又新院長は若い時藝者と心中した人で藝者は死に自分は助けられた経歴の男で、本来なら休職にでもなるべき所杉山中将等から助けられた男だそうだ。教授の食事を並食にしたとはけしからぬと大いに憤慨して居られた。古屋野教授を玄関バス迄送って行くと病院の総員が玄関前の広場に輪を作り、其等に対して泰山院長は挙手の礼をなしつつ一巡し、官舎に向って帰って行った。
其直后、誰かが一同を又何処かに集る様号令を下して居た。聞く所によると裏の広場に集めて新院長は「本院は軍戎保護院の病院となる。皆はその積りで大いに頑張って貰いたい」と云ったとか。泰山院長からの電話で判った。泰山院長は自宅には引取ったもののいらいらして居るらしく色々電話がかかって来る。遊びに来て呉れとも云う。何だか皆が見て居る様で官舎には足が向かぬ。行きたいのは山々ながら。
【10月21日】(日)
来る23日に医師会から新興善を引継ぐことになって居るので、今日のバスで長崎に向った。新興善には古屋野教授が出勤して居られた。聞くと昨日は永野知事が既に北松に出張して居たそうで、多分佐世保に行って佐世保地区連絡委員長たる佐鎮長官に面会されたことと思う。大村に立寄って泰山院長に面会されなかったのは如何にも残念だが、今は協議の結果を待つより外に仕方がない。帰りのバスに託して北村教授に手紙を書いた。尚、古屋野教授は福岡、佐賀地方に旅行の予定だったが、今が最も大事な時の様に思われるから、暫く出張を延ばして貰う様話した。古屋野教授も案外呑気だ。大学が立つか立たぬか未だ判らぬ現在、挨拶廻りでもあるまい。大学が確定してからなら行っても気持ちがよいだろうに。
12時の汽車で滑石の自宅に帰り、家族連れ立って滑石大神宮に参詣した。今日は滑石の秋祭りとのこと。
【10月22日】(月)
明日の引継の準備の為出勤。昨日北村教授へ託した手紙に調理所の佐藤君、薬局のもの等を長崎へ返して貰う様書いて置いたので、バスで佐藤君、谷君等が来て準備が出来た。庶務からは用度の柴田、事務官等が立合うことにした。
午前中に医師会長高尾氏も本部を来訪して明日の準備交渉をした。薬は各開業医達が立替へて居るので、市からの配給品から貰わねばならぬと云う。又アメリカが呉れた薬は高尾氏に個人としてやるのだと云ったと暗に大学に渡すことを拒避して居る。もう大部分各自が持ち帰った後だから沢山も残って居ない。
11時頃ついた大村のバスから北村教授の手紙が来た。今日都築教授が大村から来て知事に面会しビーチホテルに1泊して引返す由、同じ頃県庁から永野知事から古屋野教授に午后3時面会したき由の手紙が来た。知事は最早北松から帰ったと見える。12時前、県庁に中山衛生課長を訪い、赤十字看護婦を11月8日迄引続き置いて貰うことをお願いした。続いて赤十字社に山下氏を訪い、同様のことをお願いし、承諾を得た。午後都築教授来訪、古屋野教授と二人で次の如き話を聞いた。
日本には復員海軍々人の病人が約3万と見られ、其中1万5千は入院させねばならぬが、接収を逃れた海軍病院ではベットが1万2千しかない。故に大村を長崎医大にやる訳には行かぬが、其一部を使ふことは当地の事情から許されるだろう。然し海軍病院である以上、基礎教室を作ることは絶対許されない。だから若し長崎医大が大村に行くとすれば学生を集めて講義をやることは出来るが、基礎は今暫らく待って貰わねばならぬ。其中海軍病院は厚生省に移管されるが、そうなっても復員軍人の治療が主であるから、それが済む迄は全幅的に大学が使用することは出来ない。それで大学は今暫らく辛抱して貰って復員軍人が段々減って治療が完了する迄我慢して貰わねばならぬだろう。若しそれが出来ないとすれば此話は打切るより外はない。」
自分は此話の途中1~2回半畳を入れたが要するに都築教授は海軍軍人で我々の味方ではない。少なからず腹が立った。これでは長崎医大の再建も大変で、果して可能かどうか判らない。矢張り急速に大学のものにするにはアメリカの手を煩わすより外ないだろう。午后3時、古屋野教授は知事から呼ばれて県庁へ出かけられた。佐鎮長官との協議の結果を聞きに行かれるのだろうがどうせ嬉しい結果は予想されない。 |
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6、 |
新興善病院の医大への移管 |
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【10月23日】(火)
今日は新興善病院移管の日。午前中に庶務、薬局、調理所等を集めて、午后1時頃から2階の救護所本部に出かけ、調理所は事務官と佐藤君、備品は柴田君、薬剤方面は谷君と薬局の某君、夫々手分けして引継ぎを行った。萬事ぬかり勝で、機械器具等も全く支離滅裂の有様だった。調理所では全々品物がなく、明日の米から今日中に貰って置かねば炊出しが出来ぬ有様。薬は相変らず手渡すのをいやがる有様。円滑に行かぬのも無理はない。
午后4時頃、いい加減に打切った。引継ぎがすんでも尚救護本部には医師会連中が出かけて来る腹らしい。
夕方、ト部君(東大)が話たいことがあると云う。行ってみると、都築教授から昨日古屋野教授に話があったと云う。原子爆弾症の調査の件だ。11月10日迄に5千人を調査するとの事だ。団長に僕がおされ、ト部君はstaffとして僕を助ける。学生50人を使えば1人1日10人で5千人になる計算だが、どうも困難な仕事だ。調査用紙は東大佐々教授が亜米利加のを参照して作ったのがある。1人から聞くのに優に10分はかかる。それが向うから集まって話して呉れれば訳はないが、今迄に何辺となく同様の調査をして居るのでそれも駄目の様だ。戸別訪問か、市外地調査か、一寸見当はつかぬ。明日迄考えさして貰うことにして別れた。大体来週月曜から初めるそうだから、それ迄に何とか準備しよう。用紙は活版で印刷させればそれにこした事はないが、それも出来るかどうか不明だ。今日の長日に次の様な記事が載った。多分泰山院長から出たものと思われるが痛快な記事だ。泰山院長に柿と松茸を贈ることにしてバスで大村に帰る古閑君にことづけた。
院長としての新興善病院の改造、診療、原子爆弾災害調査団長としての仕事、1人2役で忙しい事、目の廻る様だ。が、男の腕のふるい所、大いにやろう。暫らく大村問題は古屋野教授や北村、佐野教授等にまかせる事にしよう。
【10月24日】(水)
午前中、新興善外来の繃帯交換をした。今日から大学でやることにして居て、人を集める暇がなかったので仕方ない。朝汽車で森君に会ったので助かったが、ガーゼ、脱脂綿、其他不足勝で困った。田添、松尾氏等が手伝って呉れた。9時に新興善についたが、原子爆弾患者が最早40~50人押しかけて居る。しかしもう大半治って居るので12時頃迄に片づいた。
午後泰山院長、新興善へ来訪。今度出来た市民病院(陸軍病院跡)をみに来たのだそうだ。Horneが見に来る様云ったのだろう。古屋野教授と一緒に出かけられた。諌早の藤田及北島氏来訪。
午后木戸君がひょっこり来た。今日ついたとの事。山陽線の被害で出て来ることが出来なかったと云う。井上満治、久貝君も来て居たが忙しいので、ゆっくり話も出来ない。古屋野教授は泰山院長と共にバスで大村へ。
北村教授と原子爆弾災害調査の打合せをした。同君にもこれと言った名案はないらしい。結果戸別訪問、近郊の調査等で学生は大村から毎日汽車で出すことにした。(この段25日大村での出来事)
木戸君は此夜宅に1泊した。
 
【10月25日】(木)
朝8時の汽車で木戸君と大村へ向った。10時頃病院に到着。午后手術。Reiskorperhygromで入念に手術したのでSackが全部剔出されて面白かった。Knochenの手術二つは木戸君にやって貰った。
小浜の宮城君と同盟通信の男が病院に来て居た。泰山院長から電話がかかって両君に面会したいと言う。夕食の時宮城君に伝えたが、院長官舎へは行かなかったらしい。北村教授及古屋野教授は夕方4時の汽車で長崎へ帰らる。
夕食后に学生(学部3、4年、医専3年)を集めて、原子爆弾災害調査のことを話し、長崎医大の名誉にかけてどうしてもやらねばならぬことを告げ一同の憤起を促した。学生は30人宛7時の汽車で長崎へ出張させ、9時新興善着、帰りは5時の汽車にする。30人を5人宛6班に分ち町を戸別訪問する。1人宛10人はどうしてもとらねばならぬ事等を説明した。
説明がすんだ時、須山君が大村町へ散歩に行かぬかと言う。君の親戚になる医師(松尾氏)を訪問するのだと言う。先日針を折れ込ました医師だそうだ。大急ぎで出かけ、大変馳走になり、9時にウイスキーを貰って辞した。
【10月26日】
午前、総廻診。泰山院長から又電話がかかって宮城君と同盟通信社員に是非会いたいと云う。岩永君(古屋野外科)に手紙を託して呼びにやる。午前中に院長官舎を訪問したものと思う。
午后、臨床講義、Cause of the intestinal stenosisについて話し、患者供覧並にgastric ulcer及Reiskörperhgromの標本示説。
今日の新聞に右の様な記事が載った。これも痛快だ。Horneが医大に好意をよせて活躍して居る様子が伺われる。これでどうして早く長崎医大のものにして呉れぬのか。歯がゆくてならぬ。
夕方のバス便で古屋野教授から、11月2日の慰霊祭に出す乾パンを新院長に交渉して呉れと云う。院長室に出かけて言って交渉したが、ウドンとかえることを話すと、すぐに承諾して呉れた。其序に次の様な話を打ち出した。 |
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