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長崎医大第11医療隊 隊長 永井隆が学長に提出した報告書。8月12日から2か月間、三山で診療した患者125名の詳細な記録と放射線による病変の特徴や原爆の将来などについてまとめられている。原爆から25年後に民家から発見された。昭和45年9月、朝日新聞社から「長崎医大原子爆弾救護報告」として出版された。劣化、損傷が著しいため2005年、東京修復保存センターに依頼し修復作業を行った。
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第6医療隊隊長 調 来助が昭和20年8月13日から書き始めた日誌。原爆被災の状況とともに医大復興に奔走したことが詳細に記録されている。
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1946年4月、バーネット大佐からウォーレン大佐に提出された「広島と長崎におけるマンハッタン管区原子爆弾調査団」の最終報告書。被爆50周年(1995年)に長崎放送の関口達夫氏がアメリカの国立公文書館から入手したもの。
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調 来助博士の原子爆弾災害調査の方針および対象者一覧。調査対象者の調査番号、姓名、性別、年齢、地域別の被爆者の症状と診断および遮蔽状況などが記録されている。 |
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名簿部分は一部割愛 |
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調 来助博士を中心とする教官と医学生により、被爆直後の1945年10月から12月までの3か月間に原爆の人体への影響が調査された。5778人の被災者に対して60項目にわたる聞き取り、被爆場所や症状などについて記録された。全26冊。この調査をもとに「長崎に於ける原子爆弾傷害の統計的観察」としてまとめられた。 |
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画像は1枚のみ |
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長崎医大第11医療隊隊長 永井 隆から長崎県防衛本部長、長崎市長及び西浦上出張所長にあてたもの。
8月12日から22日の11日間の川平町と三山町での巡回診療に関する報告である。 |
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昭和20年9月24日から12月2日の間の大村海軍病院における長崎医大の医師や学生の日々の行動を週番が記録したもの。 |
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大村海軍病院、院長 泰山弘道による原稿用紙427枚の原稿。1951年8月9日脱稿。大村海軍病院での重症患者の写真と内容が記録されている。758名の原爆患者が収容され、惨状を目撃した著者が実相を克明に記録、アメリカの原子研究班、長崎医科大学の復興などについて記録されている。「長崎が最後の被爆地であるように」との願いが込められている。 |
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画像は一部のみ |
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泰山弘道の著書「長崎原爆の記録」の英語版原稿の写しである。タイトルは“THE RECOLLECTION OF ATOMIC BOMBBARDMENT ON NAGASAKI”、1955(年)と記されている。 |
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画像は目次のみ |
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ABCC歴史編纂のためABCCに関する資料の提出を依頼された際に記された日記等の資料である。調 来助教授のABCC関係者との交流が記されている。 |
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昭和24年7月12日に新興善医院に於いて行われた長崎大学医学部救護班編成に関する会議の議事録である。 |
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1950年6月7日、長崎医科大学の被爆生存者の体験を語りあう会議が開催された。参加者は調 来助教授をはじめ13名の被爆体験者、3名の教職員のほかABCCからのゲスト4名が含まれていた。 |
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