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長崎医大報国隊腕章
寄贈:小寺健次郎氏 |
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「長崎原爆の記録」原稿
泰山弘道著、原稿用紙427枚 |
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原子爆弾救護報告
第11医療隊隊長永井隆が学長に提出した報告書。8月12日から2か月間、三山で診療した患者125名の詳細な記録と放射線による病変の特徴や原爆の将来などについてまとめられている。 |
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原爆被災復興日誌
第6医療隊、隊長の調来助が昭和20年8月13日から書き始めた日誌。原爆被災の状況と共に医大復興に奔走したことが詳細に記させている。 |
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マッカーサーへの嘆願書
1946年11月、古屋野学長と松下学生委員長がマッカーサー宛に、大学の復興を嘆願した手紙(故松下兼知氏より中根允文元精神科教授に渡されたもの)。 |
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大村海軍病院における長崎医大日記
昭和20年9月24日から12月2日の間の大村海軍病院における長崎医大の医師や学生の日々の行動を週番が記録したもの。 |
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救護班作業報告書
第11医療隊隊長永井隆から長崎県防衛本部長、長崎市長及び西浦上出張所長にあてたもの。8月12日から22日の11日間の川平町と三山町での巡回診療に関する報告。 |
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救護班編成会議議事録
新興善医院および諫早医院における会議議事録。 |
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日本育英奨学金受給者に関する記録
昭和24年2月、学生課で作成された戦災死亡者の育英資金返還の免除願いなどの資料。 |
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原子爆弾統計表
各教室別の教室員、入院患者および付添人の生死状況(手書きの名簿)。
教室には臨床と基礎がある。 |
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遺骨引渡一覧表
8月14日から9月末までに遺骨を引き渡した名簿。 |
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原子爆弾当時の人員一覧表
職員・学生の生存者と死亡者の人数。職員:生存411名、死亡346名。入院患者及付添人:生存54名、死亡73名。学部:生存189名、死亡146名、不明32名。医専:生存144名、死亡254名、不明26名。薬専:生存171名、死亡40名。 |
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原爆当時の死亡者及び生存者名簿
各教室別に死亡者及び生存者の職名、氏名が記録されている(「原子爆弾統計表」を謄写版印刷したものと思われる)。 |
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長崎医科大学報国団役員名表
昭和18年10月の役員名簿。団長の角尾晋および理事、班長の氏名が記されている。 |
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TIME誌
1995年8月7日発行の表紙には医科大学被災写真が掲載された。長瀧重信元医学部長がTIME誌に当時の医科大学の被害状況と二度と核が使用されないことを祈るといった内容の手紙を出した。1995年8月28日のTIME誌には手紙の最後の1行だけが掲載された。 |
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ルモンド紙(意見広告)
1996年1月28日、医学部の教官と学生の有志が核実験の強行を続けるフランスの有力紙ルモンドに核実験停止を呼び掛ける意見広告が掲載された。 |
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永井隆博士の私信
1950年2月7日、永井隆がサムエル・ベルグ先生にあてた手紙(返還資料)。 |
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文部大臣弔辞
昭和20年11月2日、文部大臣前田多門の長崎医科大学の殉難者に対する弔辞。 |
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マンハッタン報告書(マイクロフィルム)
1946年4月、バーネット大佐からウォーレン大佐に提出された「広島と長崎におけるマンハッタン管区団原子爆弾調査団」の最終報告書。被爆50周年(1995年)に長崎放送の関口達夫氏がアメリカの国立公文書館から入手したもの。 |
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教授会開催通知
角尾学長より内藤教授へあてた昭和20年8月8日の教授会開催通知。議事は論文受理と論文審査。報告事項は学長の出張報告。 |
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故内藤勝利教授の名刺
当時、長崎医科大学附属院長であった。 |
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学校教員学生生徒旅客運賃割引証
昭和19年3月に発行された故内藤勝利教授の旅客運賃割引証。 |
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巡回診療班カルテ
復員青年医師9名が古屋野学長の許可を得て9月30日から巡回診療を行った。カルテ137枚には被爆距離や白血球数が記録されている。
附属図書館医学分館所蔵 |
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日米合同調査団診察記録
長崎医科大学で被爆した161名の診察記録。
附属図書館医学分館所蔵 |
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本部の焼跡から掘り出された『長崎医科大学』と『医学専門学校』の校印。印材が石であったため残存した。
青木義勇 記(附属図書館医学分館所蔵) |
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